35歳男性、2週間の旅にでて辛いのは自分だけじゃないと気づいた

高校卒業からずっと製造業で会社員をしていた35歳の男性です。独身で結婚する予定もなく、彼女も10年以上いません。

長年勤めた会社を毎日残業だらけ、上司からの罵倒、給料が上がらず、このままこんな人生を歩んでいいのかなっと思っていました。こんな給料じゃ結婚もできないし彼女も作れない…子供を作ることもできないんなら、いつ死んでも変わらない。もういっそ死んでしまってもいいんじゃないかと思ったこともあります。

私の気持ちが仕事での言動にでていたのか、有給が溜まりすぎていたのかはわかりませんが、会社に2週間の休暇を取るように言われました。自分って本当は何がしたいんだろう?このままでいいんだろうか?と思い、この休みを使い日本各地のいろんな場所を巡ってみました。とくにすることもなく、日本各地をただただ巡り、本を買って公園や海岸などで読み歩いていました。

私がのんびり旅をしながら読書をしている間みんな当たり前のように働いています。私が移動するための電車、ランチを食べるために入った食堂で働く人、横でスーツをきてスマホをチェックしながらご飯を食べるサラリーマン。

もちろん休みたい、サボりたい、怒られたくない、そんな気持ちを持ちながらもみんな疲れた体を動かしてみんな当たり前のように働いていました。

そんな当たり前のように働く人たちを見て、自分だけが特別辛いんじゃない、大変なのはみんな同じなんじゃないかと気づかされました。口コミで当たると有名な沖縄ユタ一覧という記事をみて、ユタにも相談しました。そして気がつきました。

旅行に行く前は本をたくさん読んで、自分探しをしようと思っていたのですが、結果的に本を読んでも何とも思いませんでした。

本で気持ちを変えるつもりだったのですが、結果的に普段目を向けなかったただ普通に働く人達の姿をみて、自分がこれからやるべきことが見えてきました。

旅にでるのはおススメという訳ではありません。旅にでることよりも今の自分に悲観過ぎずネガティブな気持ちになりすぎないことが大切です。私の場合は旅にでて周りの働いている人の様子をじっくり見て、苦しいのは自分だけじゃないと気づきました。

56歳 女 夫、姑の本性を確信し、そして割り切ることで復縁を決心


中高年世代にあたる専業主婦です。

時折、パートやアルバイトを不定期にしています。

20代になる未婚の子供と夫との3人暮らしです。

夫とは大学時代に友人の紹介で知り合い、5年程の交際期間がありました。

付き合っている頃は、大したケンカをすることもなく、そこそこ仲の良いカップルでした。

地味なタイプでよく言えば真面目、悪く言えば融通の利かない男性ではありました。

私が21歳ころになったとき、夫の母親から卒業したら「結婚したらどうかしら」との話もあり、それから3年後私たちは結婚をすることになりました。

夫は26歳でした。

男性としては早い年齢での結婚です。

姑となる夫の母親からは別居でよいと聞いていました。

結納も終わり、数か月後に式を挙げるという頃になって、姑の態度が豹変しました。

舅が長年の患いを悪化させて、亡くなったということもあり強硬に同居という案を推し進めてきました。

それ以外にも結婚式についての私が着用する衣装や引き出物、招待客数にすべて口を挟みだし、それに閉口した私は言い争いもしましたが、結局は姑のいいなりになっていきました。

夫は何も言ってはくれません。

ともすれば、母親の言うことを聞いてやって欲しいような空気を醸してきます。

招待状も全て送ってしまい、初めて私はこれでよかったのだろうかと疑問が心の中にふつふつとわいてきました。

それでも24歳になった秋に挙式、新婚旅行と傍目には滞りなくおこなわれ、同居生活に入りました。

食事や掃除、買い物その他姑の病院への送り迎えがすぐに私の肩にかかってきました。

なかでも問題になるのは食事内容です。

味付けが、全く気に入らないようです。

姑の口には合わないようで、残されることや、文句をつけられるのは毎日のことです。

薄味で過ごしてきた私と濃い甘辛味が好きな姑とは決定的に合いません。

その他、私がそのころ続けていた仕事も辞めてくれとのことです。

そして姑は家事は一切しません。

特に料理が大嫌いとのことで、いつも居間に座って和菓子を食べながらお茶を飲んで、私の姿を見つけると世間話をするふりをして、小言に誘導していきます。

仕事から帰宅した夫に毎日のように、姑のことを相談しても馬耳東風でした。

たまりかねて、夫宅を飛び出し、実家に私は戻りました。

両親は私の疲弊した姿を見て、離婚しなさいと役所から離婚届を持ってきて、私を伴い夫宅に出向きました。

姑は離婚に応じたそうでしたが、夫は頑として首を縦にふりません。

固い職業に就いているので、戸籍を汚したくなく、世間体は取り繕いたいのでしょう。

その時、夫はやっと重い口を開いてすぐに別居の手配をすると言い出しました。

姑は大変驚き泣き出しましたが、夫は知らぬ顔をしています。

私自身も一瞬どうしたらよいのか頭は真っ白になりましたが、実家に戻っても兄弟たちがおり、長く居続けるわけにもいかないという現実もあります。

今すぐに私一人で独立するには経済的にも身体的にも無理な現状でもありました。

とりあえず、「別居をするなら、」と離婚を寸前で回避することにしました。

それから、数十年経ち、現在姑はもう故人となっています。

夫の自己保身に利用された私の人生だったのだなと実感しています。

心身ともに自分で生きていけるだけの力量を持った者だけが、本当の幸せを手に入れられる社会なのでしょう。

【大違い】柴犬系の雑種の糞尿のにおいは○○をかえるだけで激変する?


犬を飼う上で一番注意したいのは、ご近所さんや周囲の方に迷惑をかけないため、しつけや飼い主の意識の高さが大切だと思います。


わたしが住んでいる地域が住宅街で、お隣さんとの距離も近く、またうちは敷地内で放し飼いのため、無駄吠えや匂いには特に気をつけています。


散歩の時には他人の家の塀におしっこをさせないようにしたり、ペットボトルに入れた水を持ち歩いておしっこをした後に掛けたり、ウンチをするときにサッと下に新聞紙を敷いて道に付かないようにしたりしています。


食事に関しては、最近のドッグフードは安いものから犬種や体質に合わせた高級なものまで、様々あります。


うちは中型犬なので食事量が多いということもあり、最初は安くて大袋をものをあげていました。


ところが、ある時友人から素材にこだわったドッグフードを頂き、しばらくそれに切り替えていたところ、糞尿が以前よりも臭くなく、色や形も健康的な感じに変わったのです。


変えたのはフードだけなので、食べるものでこんなにも違うのかと驚き、それ以来そのフードに切り替えました。


多少高くなりましたが、、犬の健康を考えれば食べるものにも気をつけてあげるべきだと思います。

人間の健康を考えるのと同じですね。


それに、犬の病院代は実費ですのでとても高額です。


飼う上で基本のワクチンなどの注射やノミダニの予防駆除、フィラリア予防のお薬など、本当に色々お金がかかります!
もし、病気や怪我などで手術などを受ける場合は10万や20万など当たり前です。

最近では民間の会社などから犬の保険の商品も色々出ているので、不安な方は入っていたほうがいいかもしれません。


このように医療費が高額なので、病気にならないよう食事や運動など普段から健康には気をつけてあげるのが大切なのです。


このように飼う上での注意点はたくさんありますが、犬がストレスなく飼い主さんの愛情をたっぷり感じて幸せに過ごすことが何より大事なことだと思うので、家族としての意識を持って犬を飼ってほしいと思います。

33歳男 自己開示をすること

2つ違いの姉がいますが、小さな頃に高熱を出し、その影響で<br>障害が残ってしまい、私が物心ついたころには姉は周りと少し違うことを<br>どこかで感じるようになっていました。<br><br><br>同じ小学校や中学校に通っていたため、姉の弟であることは常に知られている状態。<br><br><br>私自身は姉のことが嫌だと思ったことはそれほどありませんでしが<br>小学生や中学生だと周りと違うことがイジメの対象になってしまい<br>姉が友達といることを見ることもなく、私もからかわれる場面が増えていきました。<br><br><br><br>知らず知らずのうちに私は周囲に本音を漏らすことはなくなり<br>上辺だけの付き合いが当たり前になってしまっていました。<br><br><br>そのことを特に苦痛だと感じてもおらず、当たり障りのない普通の人として<br>過ごすことが良いと思うようになっていました。<br><br><br><br>しかし、高校になると姉とは別の学校に進学したこともあり<br>私の家庭環境を全く知らない友達も出てきました。<br><br><br>何も知らない人がいるということで、素の自分を出してもよいのかなと<br>感じる瞬間も以前よりは少しだけ増え、過去のからかわれたトラウマも薄らいでいました。<br><br><br><br>未だに初対面の人とはなかなか打ち解けることが出来ず、時間をかけてこの人は<br>信用できる人なのかどうかを慎重に見てしまう傾向はありますが、<br>自分の話をしてもよいと思えた相手とは深く付き合っていけているように感じます。<br><br><br>人との付き合いをしていく中で一方通行では相手は離れていってしまうことを大人になるにつれ<br>思い知らされる場面もあり、自己開示をしなければいけないことを知りました。<br><br><br><br>この部分が得意な人はどんな人ともフレンドリーに対応できる方なのだろうと<br>私は思っており、自分にも取り入れていこうと努力している途中です。<br><br><br>自分のことを知ってもらおうとすると、どうしても家族のこと(姉のこと)を聞かれますが、<br>どこかで後ろめたさもあることは事実ですが、そういった部分も含めて理解してくれる人が<br>周りに増えていくと良いなと感じてからは少しだけ気持ちが楽になり<br>気負わずに人付き合いができるようになってきたように思います。

22歳男、新卒で就職した会社の独身寮入居が会社の規則でした


現在50歳の会社員、男性です。

今回は、「住み込みや寮住まいの仕事の体験談」について報告します。

 

その経験をしたのは、私が大学を卒業後?に就職した実家の隣町にあるH製作所の子会社だったK電機に
就職したのがきっかけです。

(ちなみにK電機は、現在、親会社だったH製作所が株を売って、
ドイツの会社に買収されて、社名も外国名のMEDJと言う完全な外資系会社に変更しています。


そもそも私がK電機に就職した理由は、私がUターン希望を大学で所属していた研究室の教授に相談し、
その教授の紹介で就職しました。

(そのお世話になった教授も既に亡くなられました。


当時のK電機は、入社後、最低2年間は、会社の同僚や先輩たちとの親交を深めることを目的として、
独身寮への入居が原則的な規則となっていました。

私も実家からK電機までは30kmあり、電車にせよ
自家用車にせよ、通勤するのは片道で約1時間かかり、会社の寮に入れば、数分で通勤出来て好都合でしたので、喜んでその独身寮に入りました。

その後、結婚するまでの約5年間を独身寮で過ごしました。

 

K電機は昭和6年に、当時の大日本帝国が、海外に頼っていた零戦などの戦闘機の電装品(マグネトや
イグニッション等)を、国内で生産する事を目的に設立された約1000人弱の社員がいた古い体質の電装品メーカーでした。


入社当時は、工場や独身寮や家族の方々の社宅や社員の駐車場の他に、グランドや体育館やプールなどもあって、現在の3倍以上の敷地があり、会社の行事も春のお花見や歩け歩け(ウォークラリー)、ハイキング、夏の盆踊り大会、ソフトボールやバスケットボール、バレーなどのスポーツ大会、労働組合の青年部として近隣工場との交流なども盛んで、とってもイベントの多い昭和の雰囲気が漂う昔ながらの人情味がある会社でした。


そんな会社の独身寮で、20代の若かりし日々を親会社だったH製作所の技術研修を受けながら、日々、
技術研鑽できたので、今では、競合他社ですが、同じ職種で実家の直ぐ近くのT芝系外資企業に上手く
転職することも出来ました。

K電機の独身寮の生活は、20代の私の青春の全てでした。

いつも同僚4人
で、食事も大浴場もボーリングや飲み会も、何でも仲間はいつも一緒で、本当に楽しかった。


喧嘩もしたけど、直ぐに仲直りしたし、忘れられない日々です。

ただ、その後、リストラが来るのを察し、先に私は転職してしまったので、せっかく仲の良かった仲間達との別れは、残念で悲しかったです。

 

その独身寮はもう壊して、土地も売って、今では建売住宅になっています。


エピソードとしては、入居後3年目ぐらいの時、寮の中で盗難が多発したことがあり、その際に、最終的に警察が入り捜査した結果、実は寮長さんが犯人だったと言う珍事がありました。

笑えないけど笑える実話でした。

確かに寮長は目つきが怪しかったです。

悪事は人相に出ますね。

 

会社の独身寮に居た頃は、ただただ毎日、一生懸命に生きていて、苦しいことも多かったけど、最終的には、会社の皆んな仲良く、楽しかったことの方が多かったと記憶しています。

 

実は、私は酒癖が悪く、同じような酒癖の悪い同僚と、何度か殴り合いの喧嘩をして、周りの人々に迷惑をかけたことを後悔しています。

今では無理だけど、本当に、あの頃は若くて元気だったのだと思います。

でも、周りも、慣れていた幹事はあり、私も喧嘩した同僚も、それに甘えていた感は否めない。

 

寮生活は、最初は少し心配でしたが、生活してみれば、みんな同じ会社の仲間であり、慣れればとても
過ごしやすく、色々なことがありましたが、なかなか経験できない共同体のメンバーとの共同生活は、
今となっては良い経験になったと思っています。

皆さんも、そんな人生の転機となるチャンスがあれば、
あまりくよくよ心配せず、前へ進んで行けばよいと思います。

為せば成る、皆さんの幸運を祈ります。

44歳、女性、パート代で宝クジを購入していました


アラフォーのパート主婦です。パート代で宝クジを買うのがちょっとした趣味になっていました。今までは、けっこうまとめて沢山の宝クジを購入していましたが、当たっても数千円程度で、購入する時には3万円ほど費やすのに、なんだかこれを継続していくのもどうなんだろう~と微妙な感じだなぁと考えるようになりました。もう少し宝クジが当たれば楽しみがありますが、パート代から捻出している宝クジ代金は、けっこう厳しいなぁと感じるようになりました。子供の教育費もここ最近、高校生になってから部活費用や塾代など、かなりアップしているのがわかるので、もう少し対策した方が無難だなぁと考えるようになったので、宝クジの購入をしばらく抑えることにしました。そうすることでパート代を少しずつ貯めることができるし、家計の足しにすることができるので、子供の教育にまわしたり、自分でコスメを購入する時に利用するなど、上手にパート代を活用していきたいと考えるようになりました。宝クジを購入するようになってから10年経ちますが、今まで最高に当たった金額は5000円です。なので、それ以上を望んでも当たらないし、購入時には30000円ほど使うのに、本当に割に合わないなぁと感じるようになったので、無理せず計画的に利用するようにしています。そうすることで、だいぶ宝クジの出費を抑えることができるようになりました。宝クジの購入を辞めようと考え始め、パート代も今後は家計の足しにしたいし、自分でお小遣いとして宝クジを購入してもなかなか当たらないの、かなり終わった後は寂しい感じがして、物足りないなぁと思う事が多々あるので、宝クジの購入はやめることにしました。そうすることで、だいぶスッキリしたし、やはりお金のやりくりが上手になったなぁと自分でも実感できるので、宝クジ購入をやめて正解だったと今は思えます。なかなかやめるまで時間がかかりましたが、すっぱりとやめてよかったです。

26歳女☆手に職をつけて強みに


私は興味はあるが行動に出すことにすごく臆病な人間でした。好奇心は旺盛で仕事となるとなんでもやってみる精神でいましたが、プライベートになると何をするにも悩んでしまい、結局やらずじまいというのが多かったです。23歳の時に、ふと、資格もなくなんの強みもないままただ働いているだけでいいのかと悩んだ時期がありました。それを周りの人に相談したところ、「好きなことや興味のあるものの資格を取ってみたらいんじゃないかな」「きっと役に立つときがくる」とアドバイスをいただきました。私はネイルに興味があったのでネイルの資格を取って手に職をつけようと決意しました。ネイルの講師も紹介していただいていざネイルの勉強をはじめようとしたところ、授業に20万円、道具に15万円が最初にかかることを知り驚きました。私はそんなにお金がかかることも知らずにやりたいと決意してしまったので後戻りもできませんでした。一人暮らしだったので貯金をすることもできず、ネイルの勉強のために仕事を増やすしかありませんでした。休む日がゼロになる覚悟と、ネイルの資格を全部取るという決意で私は決めました。会社員として働き、夜はバイト、ネイルの勉強や授業と多忙な日々が始まり無我夢中で突き進んでいました。今思うと嫌になるような日々でしたが、そのときは嫌と思ったことは一度もなかったです。好きなことをするということはこうゆうことなんだと思います。好きだから続けられる、頑張れる、目標に向かって突き進む勢いというものはそういったときに発揮されるんですね。居酒屋のバイトでもお客さんと話す機会が沢山あり、ネイルの話をするとみんな応援してくれました。その言葉のおかげでも頑張れたんだと思います。沢山の人のおかげでネイルの資格は全部とることができました。ネイルの練習は、実際の人の手じゃないと実践的な勉強にはなりません。なので、毎回毎回友達や職場の人に付き合ってもらい練習をしていました。練習時間も2時間~4時間程とかなりの時間をみんなに削ってもらい、協力してくれた人たちのおかげで実技的にも自信がつくようになりました。協力してくれた人たちには本当に感謝しています。周りの人たちがいなければ、このネイル資格もとれていませんでした。
もしやりたいことがあるのであれば、多少のリスクを背負ってでもやりたいときにやりたいことをするということがとても大事だと思います。実際私もリスクを背負ってネイルの道を歩みましたが、まったく後悔はしていませんし、むしろやってよかったと強く思っています。時間は過ぎるばかりなので行動に出すことがすべてだと思います。